久留里城(第三回)

久留里城は大多喜城と同じように城跡は2つある、現在の城は昭和54年に復元されたもので最初の城は久留里字安住原の久留里山真勝寺の東方の台地にあった。 久留里駅の東南の約1Kmの場所である。
久留里の城下町は最初は市場の集落としてでき、黒田氏になってから急速に発展したと言われている。 ここ二の丸跡の久留里城址資料館には城下町の様子や歴史あるさまざまな物が展示されている。
現在の天守閣は昭和50年に再建され3層4階の作りです。

=経緯=
初期の久留里城は千葉氏が築城しその後、康正2年(1465年)に真里谷信房が修築したとされ武定・勝真勝と替わる。

里見氏6代の義尭(よしたか)が天文22年(1553年)の頃、この久留里に本拠地を移し、最初にあった真勝寺上の「上の城」の南東に築城した。

この久留里城は房総唯一の難攻不落の城として有名でもあった。天文23年(1554年)から弘治2年にかけ北条綱成の軍が何度も攻めてきたが落とせなかったと言われた。 しかし、永録7年(1565年)に北条氏康の配下小田小太郎友治は総勢2万を従え国府台に向かい里見勢と激戦をし、里見氏は安房に撤退。

永録10年(1567年)に義尭、義弘親子が佐貫城を前線基地として、北条軍と三船山南麓で戦い勝利。里見氏は再び久留里城に入る。

天正2年(1574年)義尭が他界し義弘が城主となったが同年に他界。同8年に富浦町の岡本城に居た義弘の弟義頼は、小櫃川周辺の義弘の子、梅王丸擁立派と対立。義頼は久留里城を攻略し以後8代目を継いだ。 義頼は岡本城を本拠地としてたため、久留里城には城代が置かれていた。

天正18年(1590年)5月、里見氏の上総所領没収により、久留里城には翌年、大須賀忠政が3万石で配置され、 慶長7年(1602年)には土屋忠直が2万石で入城、以後利直、頼直と続いたが、延宝7年(1679年)に改易となり寛保2年(1742年7月)、 黒田直純が3万石で入城、9代目の直養(なおたか)の時、明治維新を迎えた。


現在の天守閣の隣に位置している城跡(左)と薬師曲輪跡(右)


=久留里城に関する寺、神社など=

真勝寺
天文9年(1540年)開基雄山和尚の開山、曹洞宗。黒田家9代目の城主、黒田直養公のお墓がある。
又、境内には「久留里秘話」の主人公の杉木良蔵・良太郎のお墓もある。
この山門の右側には千葉県最古の水道の水源地がある。(嘉永4年・1851年)ここから上町8ヶ所の水桶に給水し使用したとされる。


真勝寺と黒田直養公の墓

円覚寺
慶長9年(1604年)の創建。久留里藩の城主土屋忠直公の菩提寺。

正源寺・加勢観音
徳治2年(1307年)他阿心教上人の開祖のお寺。
天文年中に、里見義尭が本尊を寺内に安置し、
日夜信仰をしていたお寺。
北条軍の大軍が攻めてきたが里見軍は
この観音の加勢により敵を撃退した。
現在、山門の一部と樹齢7百年を越す大イチョウが当時を物語っている。
写真手前は加勢観音

円如寺
黒田公の祈願寺として栄えた。明治初年に住職の弘道師は黒田家の元家老の森勝蔵に黒田家の
記録を寄付してほしいと要望し大正3年に「久留里藩制一班」としてこの寺に寄贈され、史学上、大変貴重な資料として公開されている。

妙長寺
久留里藩士の墓が多数あり、上記の家老、森勝蔵の両親のお墓もある。又、黒田直純の愛妾
「恵光院観貞寿音法尼」や直純の姫「貞光院殿妙栄日澄大姉」などの墓もある。

新井白石
白石は久留里藩士、新井正済の子として、江戸で生まれたが土屋利直公の基で
養育され13歳のときには殿様の代筆となる。16歳のとき久留里に移り
21歳まで久留里藩士として過ごす。(久留里小学校入口に住居跡がある)
37歳の時、綱豊将軍の政治顧問となる。

右、写真は久留里城二の丸跡に建造されている白石像。

雨城楊枝
久留里藩では土屋時代から下級武士の内職として作られていた
「クロモジ」の木を材料として製造されていた楊枝である。
現在、君津市指定有形文化財となっており、森光慶氏がただ一人
伝承し守っている。


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