大多喜城 (第2回)

大多喜城は現在、総南博物館として大多喜町を見下ろす小高い山の頂上に建っており、四季を通じ 観光客の憩いの場所となり。博物館内部では城下町の様子や歴史あるさまざまな物が展示されている。 現在の天守閣は昭和50年に再建され3層4階の作りです。

=経緯=

大多喜城は最初は根古屋城呼ばれ、現在の場所から1キロメートル程北の住宅地の中にあり、その城址であった案内碑(左写真)がある。
大永元年(1521年)に真里谷信清(甲斐の武田一族)が築く。3年後に他界しその長男である直信氏が城主となり、その後、戦で敗れ直信の長男(朝信)が三代城主 になったが、天文13年(1544年)には正木時茂が攻めてきた。そして城主となり三代(憲時・時尭)と続く。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の天下統一により正木時尭は大多喜城から追い出され、その後は徳川家に移り、本多忠勝が新しい城主となったが 忠勝は新しく現在の地である場所に築き直した。(禄高10万石)
この後、城主は阿部、青山、久世、稲垣、植村と交代し元禄16年(1703年)に松平正久が引継ぎ以後九代に続いて明治維新となる。


城の火災は良くある話でこの大多喜城も天保13年(1842年)松平正和の時に全焼したが、藩の財政が思わしくなく元と同じように再現されることがなかった。



=ドン・ロドリゴ事件=

慶長14年(1609年)にメキシコへ向かう帆船サン・フランシスコ号が暴風に遭いドン・ロドリゴ一行約300人は御宿町(岩和田)の海岸に流れ着き 住民は救助し温かく迎えた。これを知った忠勝は、衣類や食物を与え幕府から指示があるまでの37日間を手厚く保護した。そしてドン・ロドリゴを大多喜城に招き、歓迎し、馬を贈ったと言われた。 その後、江戸城で秀忠と、また駿府では家康の歓待を受け、京都見物までさせ、豊後の臼杵から送還させている。 ロン・ロドリゴは翌年まで残り日本商人22人と一緒にメキシコに旅立った。太平洋を横断した最初の出来事である。そしてメキシコ・スペインなどと友好な関係ともなった。

=大多喜城に関するお話=

大多喜水道の跡
本丸の上り口の左手に人の背丈ほどの縦長のトンネル状の穴があいている。この水道は最後の藩主松平正質が明治2年に着手し翌年完成したという。大多喜の町は良い水に恵まれず、これにより 城から2キロほどの滝から町へ水を流した。約200戸の人々がこの水の恩恵を受けた。

医薬門
大多喜水道工事に功績があった小高半右衛門が貰い受けて自分の門にしていた。しかし大多喜中学校(現高校)ができたとき校門として寄贈された。この門は二の丸御殿内の門といわれている。

二の丸大井戸
大多喜城内には現在でも4個所の井戸跡があり、その中でも大多喜高校の敷地に残されているものは日本一の大きさとされている。 周囲17メートルの円形で深さは20メートル、地下の水路が夷隅川まで続いていると言う底知らずの井戸と呼ばれている。

写真、左上は水道のトンネルの穴・右は医薬門(大多喜高校敷地内)下は大井戸(大多喜高校敷地内)


渡辺家住宅
国の重要文化財。この家は嘉永2年(1849年)の建築で、二階建て寄棟作りの江戸末期を代表する町家建築である。この渡辺家は藩御用達の豪商でノレンは松平の家紋が デザインされている。

良玄寺
夷隅川にかかる三口橋のから少し中に入った旧道、右に本多家の菩提寺がある。当初は良心寺といわれた。現在は住職がいない寂しいお寺だ。ここから先、大円寺など多くのお寺が点在する寺町になる。

街道沿いの渡辺家と本多家、菩提寺の良玄寺

大多喜城の支城
勝浦城・興津城・大戸城・寒山城・大野城・飯田城・山田城・新戸城・吉尾城など大多喜城からかなり広い範囲に影響力を持っていたとされる城である。



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