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| 千葉市の繁華街を通り抜け蘇我の先に生実(おゆみ)という地名がある、そこに大きな池が目に入る。 この池が生実城の堀の役目をしていた池である。そしてその向こうの台地が生実城の跡である。直ぐ横には生実神社もある。 この城跡周辺は江戸時代、陣屋となっていた所であるが現在は住宅地となってしまっている。 この城の前は1.5Km南に小弓城があったとされる。小弓城の先は上総国との境で猪鼻山の千葉城を守る拠点として重要な城でもあった。 |
=経緯=
| 生実城は南に約1Kmの場所に小弓城があり、同じ読みであるが全く違う地名と城名である。(文献によるとこの生実城は北お弓城とも言われていた)。この生実城が築城される前に既にお弓城があった。室町時代には城主も激しく変わり、康正元年(1455年)には原胤房が城主となったが、
永正14年(1517年)古河公方・足利高基の弟・義明を擁して上総の武田信保が変わって城主になっている。義明は小弓公方と呼ばれ、この小弓城は小弓御所と言われ房総一円に勢力を伸ばしたとされる。
その後、天文七年(1538年)安房の里見義尭は義明と下総国府台へと戦を交えた、この時、義明は戦死をしてしまう。その後再度、原胤房が城主となる。この時、里見氏の攻撃のため強固な城を造らねばと思い北の生実に城を築いたとされる。(天文8年・天文7年の説もある)) 天正18年(1590年)に秀吉の小田原攻めで、原胤栄は小田原の北条氏側に属していたため徳川家康配下の酒井家次に野田十文字野(緑区誉田町)で討たれて滅亡する。 徳川家康が関東に入国すると、生実城は5千石で西郷家員(いえかず)を配置し、寛永四年(1627年)将軍秀忠のとき側近の森川重俊が譜代大名として1万石で陣屋の藩主となる。その後、森川氏が明治まで12代と長く続く珍しいものとなった。 |


生実城の本丸があったとされる場所、今は住宅地内に本城公園(説明板)があるのみ

北小弓城(生実城)の大手口跡

=生実城に関する寺、神社など=

地蔵堂
地蔵菩薩と閻魔大王を安置するお堂。16世紀の中頃貞把という僧が布教の折り、時の城主原胤栄がこの僧に深く帰依し
夫人の宅を道場として与えた。これが後の大巌寺である。
大巌寺
天文17年(1548年)に生実城主原胤栄が建立。家康の保護を受けた名刹のお寺である。


