佐倉城(第八回)
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現在は佐倉城址公園となって、公園の北西部に本丸跡は位置していた。
| 佐倉城址は現在国立歴史民俗博物館が有る小高い丘にあり、下には鹿島川、高崎川が流れる。城の場所としては典型的な敵から防備する最適な位置に築城されていた。 この佐倉城は江戸東方の拠点として関東でも有数な又壮大な城郭であった。 家康が関東に入り最初に五男の武田信吉を配してその後多くの中心人物が入封し、最後に堀田家(正睦)で明治を迎えることとなる。 その堀田正睦が蘭学を奨励し順天堂を開かせたりしたことは有名で現在、堀田家の建物、資料及び順天堂の記念館があり是非一度、ゆっくり散策を兼ね昔を思うのもよいのではなかろうか。 |
=経緯=
| 1 | .戦国時代、千葉氏が亥鼻城を捨てて「本佐倉城」(現酒々井町)築いた。 |
| 2 | 鹿島幹胤が鹿島台「鹿島城」未完成のまま引き継いだが、秀吉の小田原攻めで北条と共に千葉氏も滅亡し、本佐倉城と共にこの城も焼かれた。 |
| 3 | その後関ケ原に勝利し江戸に入った家康が、佐倉領を重視し五男の武田信吉を配す。 |
| 4 | その後、六男松平忠輝、小笠原家を配す。 |
| 5 | 慶長15年に老中土井利勝をここに封じて、鹿島山の廃城跡に本格的な築城を命じ、6年余をかけて元和三年に完成した。3つ目の「佐倉城」になる。 |
| 6 | その後石川家、松平家、堀田家、松平家、大久保家、戸田家、稲葉家、松平家と老中が相次いで入城しする。 |
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最後に山形の老中堀田正克が10万石で入城し、老中首座を務め1万石加増され11万石となりその後堀田家が定着し明治維新まで続いた。 |
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椎木門の写真
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一の門跡
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馬出し空堀
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佐倉城に関連する神社・記念館他
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【麻賀多神社】 |
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| 【重願寺】 城下町に建立されているお寺で佐倉藩士の多くのお墓があるお寺です。 |
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| 【甚大寺】 佐倉家藩主、堀田家の菩提寺としてのお寺です。 |
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| 【武家屋敷跡】 現在3つの武家屋敷が保存されています。 これら3つの武家屋敷は「天保御制」と称され藩士の生活諸般について細かく規定され、住居についても華美を戒めるものとしています。 この3つの屋敷は等級の異なった屋敷として、大屋敷、中屋敷、小屋敷とそれぞれの違いが分かります。 旧河原家住宅(大屋敷) 建築された年は定かではないがこ弘化2年(1845年)にはすでに存在していたことがわかっています。この屋敷は残っている屋敷の中では最も古いとされています。 間取りは座敷・居間・納戸・玄関・次の間・仲の間・茶の間・土間・湯殿・男部屋となっています。 このほかに旧但馬家(中屋敷)、旧武居家(小屋敷)がある。 |
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| 【旧堀田邸】 旧堀田邸は最後の佐倉藩主堀田正倫の邸宅で明治23年(1890年)に竣工しますした。 近世武家の住宅を引き継ぎ近代の粗らしい生活に合わせた部分も見られる。庭園は眼下の高崎川が眺められ景石や庭木などゆったりと配され素晴らしい作りとなっています。 部屋数は座敷・居間・次の間・詰所応接の間・寝室など25、6もあり便所も6箇所設けられています。 壁土の色も部屋毎に分けられ、浅黄大津、黄大津、大阪土、漆喰、桃山などになっています。 敷地の総面積は当時で3万坪もあり、現在では1万坪となっているそうで老人ホームや病院など敷地内に建てられています。(日産厚生会佐倉厚生園) |
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| 【佐倉順天堂記念館】 佐倉藩主の堀田正睦が学問・武術を特に奨励し特に正睦は「西洋堀田」とあだ名されるほど西洋びいきで、蘭学に理解があったので西洋医学を進んで藩に取り入れていました。 その時、江戸で外科を専門に開業していた佐藤泰然を正睦が知り佐倉に招き呼び寄せこの地で順天堂を創設しました。(天保14年・1843年) ここから優秀な数多くの人材が育ち、その後近代医学の発展に大きな役割を果たしました。 天然痘である種痘もいち早く藩に取り入れました。 |
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