関宿城(第四回)

昔の関宿城は現在の場所から南に500メートル程離れた利根川の土手の直ぐ下にあり、今まで紹介してきた城のように山の上には建っていない珍しい城です。
現在の城は平成7年に県立関宿城博物館として新しく復元されたもので3層4階建(江戸城富士見櫓風)造りで、スーパー堤防の上に建てられています。
この関宿は戦国時代には「関宿を支配することは一国を支配するのと同じくらいだ」と言われるほど重要な場所で戦国大名が戦いを繰り返してきたといわれている。
江戸幕府になって関宿藩を置き、信頼できる譜代大名に支配を任せていました。
ここ関宿では洪水対策や新田開発、お茶の栽培に力を入れていました。 利根川と江戸川が分かれるここ関宿は河岸としても栄え「日光東往還」の宿場町としてもおおいににぎわいました。

=経緯=
関宿城は今から約500年以上前の室町時代、長禄元年(1457年)に梁田成助(当時古河から関宿にかけて支配していた足利成氏の有力家臣)が築城されたと伝えられている。

徳川家康が関東に入国したとき、江戸防衛の要衝であるこの城を松平康元を配置しその後小笠原氏、牧野氏、板倉氏、久世氏など八家、22人となった。 そして藩主の中に、老中になった者が4名、京都所司代が3名と幕閣の中心を担った。 関宿藩主23代のうち久世氏は10代にわたり4名が老中となった。 藩主の多くが関宿城から出たときには、位も石高も上がり、別名「出世城」とも呼ばれた。

寛永17年(1669年)に城主となった北条氏重は関宿城の「時の鐘」を造ったともいわれている。その後、寛文9年(1669年)に5万石で入封した久世広之である。旗本の出ながら、四代将軍・家綱の側衆となり、老中と出世して 関宿城の城主となった。

その後に、牧野成貞が石高7万3千石になっている(元禄元年・1688年)、成貞のあとには成春が継ぐ。

牧野氏のあと再び久世氏が城主となり明治まで藩主と続く。特に久世重之は広之の子として7代将軍・家継の時、老中となる。その後弘明、弘周の二人も老中に就いている。


現在の場所から約500メートル南にある城跡


=関宿城に関する寺、神社など=
実相寺

応永16年(1423年)に創建されたお寺で、大きな山門のあるこの寺が久世氏の菩提寺で境内には久世家関係の家臣や鈴木貫太郎の墓(後記述)もある。本堂の奥には客殿(本丸)がある。
この客殿は関宿城の新御殿と呼ばれたもので後に移築されたものである。
千葉県で本丸が存在するのはここだけです。(右の写真は実相寺山門)
   
昌福寺

室町時代、築城の際、梁田氏が猿島郡水海村(現茨城県総和町)から移築されたとし、境内の不動堂は久世氏の祈祷所であった。
 
   
宗英寺

慶長元年(1596年)に松平康元が建立し、康元もここに埋葬されている。
境内には足利晴氏の墓があり、又、水害で悩んだ関宿藩の治水工事に活躍した船橋髄庵(1795〜1872)の墓もある。


   
光岳寺


このお寺は初代藩主であった松平康元が、慶長7年(1602年)に母、お大の方(家康の生母)の死去に際し、菩提を弔うために建立された。
最初は弘経寺であったが家康が寺号を改めさしたという。(寺紋は三葉葵)
 
   

関宿関所跡

幕府は寛永2年(1625年)に関所制度を設け、後には藩が管理することになる。 この関所は、水関所と言われ物資や人の流れを管理していた。 この関所周辺には問屋や旅篭、飯屋、女郎屋などが集まり、当時の人口は約5万人といわれ繁盛していたようです。 当時の関所は現在の記念碑が建っている所ではなく川を挟んで向かい側であったという。現在は河川敷きになってしまい、記念碑は現在地に建立されている。

   

鈴木貫太郎記念館

関宿藩の家臣、鈴木由哲(ゆうてつ)の長男として藩の飛地領である、和泉国伏尾(現堺市)で生まれる。第二次世界大戦の時の総理大臣として有名です。


鈴木貫太郎生家跡(記念館の隣にある)

   






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