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10代170年間、武門の名家として房総を支配してきたが幕府の外様大名とりつぶしの策によって没落した。 そしてこの名城もわずか27年で住む人もいなくなってしまった。

このモデルになった八犬伝は忠義の家臣(八人)が倉吉で忠義の墓前で腹を切って殉死しその遺骨を館山まで持ってきて供養しようと蛸壺に入れ
漁夫に変装し持ち帰り、慈恩院(里見家の菩提寺)で玉峰和尚(義康の弟で僧となった)が手厚く供養し、墓を城址南側に建てた。
現在もひっそりとした中に静かに眠っている。この八人の名前は定かではなく戒名と俗名が石碑に残されているが戒名には全員“心”と“賢”が入っていることに注目したい。
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| 天守閣から館山湾を望む | 静かな場所に建てられた慈恩寺 |
=館山城に関する城や寺など=
慈恩院
天正九年(1581年)に隣の三芳村にある延命寺第二世月州周筑和尚を招いて開山したお寺で最初は城山の頂上にあったといわれています。
9代義康が築城の際に、現在の地に移され里見家の菩提寺とされ、境内には義康の供養塔がある。
大厳院
慶長8年(1603年)に里見忠義に招かれた高僧雄誉霊巌上人によって開かれた浄土宗の古刹。
南条城跡
里見氏の家臣烏山時貞が築いた。別名烏山城と呼ばれる。この時貞の娘が5代義豊の妻である。
後に8代義頼の子、尭時に城主とした。
長田城
別名千田城と呼ばれる。里見氏初代の義実が築き、白浜城からここに移りそして稲村城に移った。
稲村城
義実が長田城の後、文明18年(1486年)に築城に取り掛かり享長2年(1488年)に完成間時かに死去するが
2代成義、3代義通がその後の城主となった。
北下台
館山城の北西の館山湾に面した城郭の一部が海上からの攻撃に備えた見張り台。その後の館山藩には灯明台が建てられ明治2年に廃止された。
根古屋
城の南西山麓を根古屋(城郭の縄張りの中で武士が平和な時に構える城や館のある集落)と称し、この地から五輪塔が何基か出土し歴史を秘めた所だったようです。