館山城

館山城は現在、城山公園となって館山市民の憩いの場所として親しまれ博物館や分館として館山城を復元した 建物の中に多くの資料が展示されています。 天守閣の形式は櫓に入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼を乗せた天守閣は16世紀後半の典型的な姿となっています。

=経緯=
戦国大名として里見氏が安房国を精力的に治めて一時は下総まで勢力を伸ばしたと言う。
現在の地に築城されたには9代義康が天正18年(1590年)の夏に完成した。
総面積42万平方米の広大敷地の中に城郭、矢倉、武家屋敷、城下町など計画的に作られ 平山城形式の名城とされた。
この時、領土は安房国9万2千石。関ヶ原合戦の功労で1600年に鹿島3万石を加算される。(鹿島堀はこの時作られた) 10代忠義になり状況は一変し慶長19年(1614年)9月9日に改易を命じられ安房9万2千石を没収、鹿島3万石は 倉吉(岡山)に替地として移される。
元和8年(1622年)に29歳の若さで倉敷で悲劇的に生涯を閉じた。

10代170年間、武門の名家として房総を支配してきたが幕府の外様大名とりつぶしの策によって没落した。 そしてこの名城もわずか27年で住む人もいなくなってしまった。



=伝説=
城、没収の時、莫大な里見家の軍資金を持ち出した伝説があり、近くの嶺岡山系や市原の金剛地など埋めた話がある。

=南総里見八犬伝=
戦国武将里見氏を題材に江戸時代に滝沢馬琴が28年の歳月を掛け全106冊という日本で最も長い、世界でも有数の長編小説が完成した。
その人気は江戸から現在まで本はもとより歌舞伎や映画、テレビに至るまで多くの人を楽しませてくれた。又、美術分野においても 絵双紙、武者絵、役者絵、双六や凧の図柄となって好まれ親しまれました。

=八人の家臣=
このモデルになった八犬伝は忠義の家臣(八人)が倉吉で忠義の墓前で腹を切って殉死しその遺骨を館山まで持ってきて供養しようと蛸壺に入れ 漁夫に変装し持ち帰り、慈恩院(里見家の菩提寺)で玉峰和尚(義康の弟で僧となった)が手厚く供養し、墓を城址南側に建てた。 現在もひっそりとした中に静かに眠っている。この八人の名前は定かではなく戒名と俗名が石碑に残されているが戒名には全員“心”と“賢”が入っていることに注目したい。



天守閣から館山湾を望む静かな場所に建てられた慈恩寺

=館山城に関する城や寺など=

館山藩陣屋跡
城跡の東側に有り里見氏時代の城郭の一部であったといわれ、天明元年(1781年)に稲葉氏が藩主となり初代正武から4代正善まで在藩し明治2年に版籍奉還した。

慈恩院
天正九年(1581年)に隣の三芳村にある延命寺第二世月州周筑和尚を招いて開山したお寺で最初は城山の頂上にあったといわれています。
9代義康が築城の際に、現在の地に移され里見家の菩提寺とされ、境内には義康の供養塔がある。

大厳院
慶長8年(1603年)に里見忠義に招かれた高僧雄誉霊巌上人によって開かれた浄土宗の古刹。

南条城跡
里見氏の家臣烏山時貞が築いた。別名烏山城と呼ばれる。この時貞の娘が5代義豊の妻である。 後に8代義頼の子、尭時に城主とした。

長田城
別名千田城と呼ばれる。里見氏初代の義実が築き、白浜城からここに移りそして稲村城に移った。

稲村城
義実が長田城の後、文明18年(1486年)に築城に取り掛かり享長2年(1488年)に完成間時かに死去するが 2代成義、3代義通がその後の城主となった。

北下台
館山城の北西の館山湾に面した城郭の一部が海上からの攻撃に備えた見張り台。その後の館山藩には灯明台が建てられ明治2年に廃止された。

根古屋
城の南西山麓を根古屋(城郭の縄張りの中で武士が平和な時に構える城や館のある集落)と称し、この地から五輪塔が何基か出土し歴史を秘めた所だったようです。


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